道内学習塾の生き残り戦争シリーズは、1つの章は10話までと決めていたのですが、病み上がりの増長気味展開で長くなってしまいました。申し訳ありません。今回できっちり終わりますから。
前回までの(41)~(51)では、結局のところ「塾講師は聖職ではない!」という論調で終始貫いてきましたが、それは本当に正しいことなのでしょうか(書いた本人のいう言葉じゃないですね)。
実のところ、「聖職でない塾講師」と「聖職である塾講師」の両方がありうるというのが正解と考えています。もちろん、前回まで書いたように「大手塾の講師=企業戦士」ですから、大手塾には聖職である塾講師はいません。自分が聖職と思っている者は単なる悲しい勘違いです。
別項目「“夜スペ”について考える…」から引用しますが、私は公教育と私教育を次のように考えています。
教育の機会均等には2つの意味があると思います。1つは「すべての生徒に最低限の知識や教養を与える機会をつくること」いわば与える教育です。もう1つは「それぞれの生徒のニーズに応える機会をつくること」つまり応える教育です。
……中略……
公教育は「学問所」「藩校」と同じく与える教育のままでないでしょうか。応える教育に対応してきたものこそ「寺子屋」「私塾」の流れをくむ私教育であって、それが「私立学校」「塾」「予備校」などとして細分化されて発展してきたのではないでしょうか。
……中略……
サッカーチームが勝利するためには、11人のプレイヤーがFW、MF、DF、GKと役割を分担し、時には足りない部分を補いながら戦うのが当たり前ですね。学校教員と塾講師は、生徒の未来を担う1つのチームと考えてはどうでしょうか。
塾講師の中で、私が聖職だと考える方々は、上記の応える教育に真摯に対応している立場の方々です。
簡単に言うと、教育界の現状を憂い、個人塾を立ち上げて利益よりも「子供たちの将来のため」「地域社会のため」に行動している方々です。
そのような考えの個人塾のオーナーは、学校教員と塾講師は1つのチームであることを認識し、結果的に生徒を育むための方法論を展開するのです。「学校教員の評価が塾講師より低いことが悲しい」などと嘆く義家弘介氏より、高い志を持っているのではないですか。
もちろん塾である以上、塾費用は発生しますが、小回りの利く個人塾ですから極端な話「自分がまともに生活していけるだけの授業料」さえ貰えればよいと考えている方々もいるのです。
貰える最低限の給金より、心からの「生徒の笑顔」「達成した時の充実感」などを励みに頑張っている人々。そんな塾講師こそ最も聖職者に近いのではないでしょうか。
例えば、岩見沢の『志学館』という個人塾の場合、地元高校出身の方が「地域や後輩たちへの恩返しをしたい」という思いで塾を創設し、大手塾では軽視されがちの「生徒自身の自学力を育むこと」を重視した指導を行っています。
形態的には個別指導に近いのにも関わらず、月謝は市内大手塾の集団クラス並みですから、経営的には苦しい面もあるでしょう。しかし、代表との会話から、
「自分のエネルギーはすべて生徒たちからもらっています。」
……そんな雰囲気で経営しているようでした。
岩見沢の『志学館』のような個人塾が評判になって、少し大きくなったのが札幌の『TANJI』であり、北見の『志学会』じゃないでしょうか。この2つの塾は、3.5章でも書いたように私が最も評価している私塾でもあります。スタッフ全てが聖職とは言いませんが、少なくとも代表はそんな志にあふれていました。
大手塾で「何かが違う!」と思いながら勤務している講師の皆さん、そんな世界へ飛び込んでみませんか?
そんな志高い方々にとって、大手塾での生活は窮屈なものでないでしょうか?
(第6章完)
------------------------------------------------------------------------------------------------
〇『塾・予備校ブログ』を応援よろしくお願いします!