あらかじめお断りしますが、本HPでは各塾の企業体に属する個人に対して論評するのはタブーとしています。しかし、国会議員である公人の場合はその限りではありません。特に、塾業界を否定するような言動には反論させていただきたいと思います。私教育を律する立場の者として……。
さて、今回のテーマに登場する人物は予想できましたか? 正解は義家弘介氏です。
通称『ヤンキー先生』として有名ですから、このブログを読まれているすべての方がご存知でしょう。ざっと、彼の経歴を紹介すると、次のような感じです。
◎1971年に長野県で生を受ける。少年期は不良として過ごす。
◎1988年に北星学園余市高校へ編入。
◎1995年に明治学院大学を卒業。
◎1999~2005年の間、母校で教鞭を執る。
◎2005~2006年に横浜市教育委員会教育委員、東北福祉大学特任講師、教育再生会議委員(内閣官房教育再生会議担当室室長)などに就任。
◎2007年7月に参議院選に立候補して当選。現国会議員。
ここで、一言申し上げたいのですが、95~99年の4年間に義家弘介氏が何をやっていたかと言うと、何と小樽R会で社会科の塾講師をやっていたのです(A君にも確認済み)。義家弘介氏の著書などには塾名は明記されていませんが、選挙の広報や首相官邸HP等ではっきりR会にいたことは経歴発表されています。
義家弘介氏の著書『不良少年の夢』には、R会にいた時のことが記載されています。その中に記載された気になることを何点かふれていきたいと思います。
(1)なぜ義家弘介氏はR会に入社したのか?
将来的に母校の北星学園余市高で教鞭をとりたかったので、R会の持つ教科指導ノウハウを吸収するために入社したとのこと。母校で指導をするには『惹きつける、魅力ある授業』で学力差のある1クラスの生徒全員を満足させたいと考えていた。
→教科指導の技術を磨くというのであれば妥当な動機でしょう。しかし、学力別クラス編成のなされている大手塾の指導をもとに、学力差のあるクラスでの指導法を構築するのには無理があるのではないでしょうか。つまり、「学力差のある1クラスの生徒全員を満足させたい」という部分は高校教員転職後の後付けの理由にしか思えません。ついでに言うと、R会は小中学生対象の塾なので、高校生の指導にどれだけ生かせたかは疑問です。
(2)R会在職中はどんな社員だったのか?
形式通りの研修後の最初の授業は、本人の思惑とは大きく異なる大失敗であったらしい。それをバネにして授業見学や教材研修を重ね、半年後には自称「人気講師の1人」になった。
待遇的には、高級外車を乗り回したり、海外ブランドのスーツを着こなしていたことから割と高給取りだったと思われる。
→A君によると、半年で人気講師になるのは稀なことで、指導内容以外の語り(ユーモアや過去の経歴トークなど)が持ち味の指導であったのではと分析しています。ただ、著書からは自己の生徒管理や生徒募集での記載はほぼなく、同僚のことを他人事のように記載していることから、授業以外には関心があまりなかったのではないでしょうか(社会科主任はやっていたそうですが)。
また、最初の半年(1年?)は、必死にやるのは当たり前のことで、その後はどれだけ教材研究をしたかは疑問です。待遇面も、A君によればその当時のR会なら4年目でも手取り25万円が限度で、賞与も年間80万以下のはずなのでかなりの浪費家であったと思われます。浪費家は将来より現在を考えるものが大多数なので、その当時、義家弘介氏が真剣に母校で教鞭をとることを願っていたとは信じられません。
(3)塾業界をどのように考えていたか?
労働条件が過酷なうえ利益産業なので、若くパワフルな野心家でなくては勤まらない業種と感じていたらしい。指導力が商品である故、学校教員より塾講師のほうが生徒の評価が高いことに疑問を感じていたらしく、「学校への不満」を生徒が口にするたび心を痛めていた。
→著書の前半では、学校教員や指導に対して否定的な内容が書かれています。彼が評価している学校とは、あくまでも母校を指すのであって、公立の小中高ではないことが読み取れます。そのような者が学校に対する不満を口にする生徒を非難するのはおかしなことであって、これも後付けの理由にしか思えません。
もし、義家弘介氏の考えが真実なら、公立の教員を志すのが筋でしょう。生徒たちが非難している先生とは公立中学校の教員なのですから。「学校は塾より楽しい場所のはずだから」と言う以上、そうすべきでなかったのでしょうか。それとも、教員採用試験に合格する自信がなかったのでしょうか?
(4)なぜR会を退職したのか?
恩師から母校の教員に欠員ができた旨を連絡され、採用試験に合格したため。
→塾講師としての地位には満足していたと記載されていますが、もし恩師から連絡がなかったらどうしていたのでしょうか。連絡が来るまでR会に在職する道を選ぶなら、社員としてもっと身に付けるべき素養があったはずです。遅かれ早かれ、10年はもたなかったのではないでしょうか。
以上の記載は、私というより同じR会で勤務していたA君の考えをかなり反映したものです。ただ、私もA君に共感できる部分が多いのも事実です。
義家弘介氏のような塾業界(私教育)への考え方には、私も疑問を感じます。公教育への擁護にも矛盾した発言が多く、私のように教育の両輪として公と私を捉えていないのは残念です。“教育は愛”などという意味不明の発言にも困りものですね。義家弘介氏は戦国武将の直江兼続のように、頭に愛をかざして走りたいのでしょうか?
その後の経歴にも実は疑問を持っています。あれほど切望した母校での勤務を6年で辞したのは何故なのでしょう? 自分を見直す時間を作ることもなく、次から次へと切れ間なく転職していくのも処世術のうまさだけが鼻につきます。単なる飽き症じゃないですかね。
教育再生会議の委員を1年未満で辞したのも、ある意味彼の個人主義からきているように思えます。自己のスタンドプレーには長けているが、同じ志をもつ者と意識を共有できないもろさも感じます。
※なお、塾論とは関係のない義家弘介氏の考察については、下記のHPが詳しいので、興味のある方はご覧になってみるのも一興です。
●『義家弘介研究会』(そのままHPへ行けます)
と、本題から外れた内容を今回あえて記載したのは、曲がりなりにも4年もの間、義家弘介氏のような企業人向けでない人物がR会でそれなりの評価を得つつ勤務できたことが問題だからです。
これがHZ会やS英予備校だったら、おそらく2年と持たず退職していたのでないでしょうか。企業人としての査定方法に前者と後者には大きな違いがあります。次回は、社員講師の査定についてお話しいたします。
【付記事項】08/08/23
直江兼続の兜の前立(兜のかざり)の件で質問がありましたので、お答えいたします。
兼続の前立に「愛」の文字が掲げてあったのは、日本史上で有名なお話です。ただし、兼続の前立の「愛」は「愛染明王」という、密教におけるどんな苦難にも挫折しない強さを象徴する明王にあやかったものです。けっして軟弱な意味でつけたものではありません。
なお、「愛=love」というのは、明治時代になってからの訳語だそうです。
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